今回は塩野七生氏の「ローマ人の物語」を要約していきます。40は「キリストの勝利」の下巻です。皇帝ユリアヌス亡き後の皇帝ヴァレンティニアヌス一家による治世・皇帝テオドシウスの台頭・ミラノ司教アンブロシウスによる間接的な政治支配により、キリスト教国化完成という歴史的転換点をローマ帝国は迎えます。神の代理人としての教会・司教が皇帝よりも権威があるということが決定的となり、かつての多神教国家であったローマの統治体制(元老院議会・神殿・ギリシア文化)が崩壊していき、蛮族の台頭も相まって中世化が進む局面を描いています。
「ローマ人の物語40」
■ジャンル:世界史・歴史小説
■読破難易度:低(非常によみやすい文体で書かれており、一部物語調なのでサクサク読めます。世界史の教科書や地図を手元に置いて読むとわかりやすくなります。)
■対象者:・ヨーロッパの歴史について興味関心のある方
・ローマの栄枯盛衰の変遷を詳しく理解したい方
≪ローマ人の物語35・36・37(最後の努力)は下記≫
≪ローマ人の物語38・39(キリストの勝利)は下記≫
≪参考文献≫
■ローマ人盛衰原因論
■要約≪ローマ人盛衰原因論≫ - 雑感 (hatenablog.com)
【要約】
■皇帝ヴァレンティニアヌス一家による治世(紀元365~379年)
・紀元364年に皇帝ユリアヌスが死に、皇帝ヨヴィアヌスによりユリアヌス時代の反キリスト教政策は全部立ち消え、7カ月の即位の後に台頭する皇帝ヴァレンティニアヌスは蛮族出身の皇帝ながら軍事面に明るく、安定した10年間の政権を推進していました。ヴァレンティニアヌスはゲルマン民族出身ながらパンノニア属州のローマ兵の家系で生まれ育ち、皇帝コンスタンティウス時代にずっとユリアヌスの側近として軍務に従事していました。皇帝ヴァレンティニアヌスは弟のヴァレンスを皇帝即位直後に共同皇帝として指名し、ローマ帝国東方の統治を委任していました。蛮族の襲来の問題が深刻化していたのはローマ帝国西方であり、かつローマ帝国東方戦線はペルシア王国のシャプール二世が高齢にて勢いが途絶えており、死後の権威をめぐった内乱も起きていたので平穏でした。
・ヴァレンティニアヌスには妻との間に生まれた子、グラディアヌス・ヴァレンティニアヌス二世がいて後に皇帝としてローマ帝国を統治することになります。ヴァレンティニアヌスは統治11年目の紀元374年に54歳の時に急死してしまいます。帝国西方をグラディアヌス・ヴァレンティニアヌス二世、帝国東方を47歳のヴァレンスが分割統治する形で進むます。
・この時代に北方蛮族をも脅かす蛮族の中の蛮族である中央アジア発のフン族が台頭しました。後のゲルマン民族の大移動を招き、ローマ帝国崩壊を招いた根源だ。フン族は当時ローマ帝国を襲来していたゴート族やフランク族・ゲルマン民族にとっても脅威でした。ゴート族はローマ皇帝ヴァレンスにローマ帝国内部への移住と農耕従事による平和的蛮族問題解決を懇願し、トラキア地区に移住してきました。しかし、どさくさに紛れ込んで許可をしていない蛮族もローマ帝国内部に紛れ込み、当初想定の10万人を大幅に上回る30万人がローマ帝国内部に移住しました。30万も受け入れる費用やキャパもなかったためにゴート族は生活に困窮し、しばらくすると蛮族化してマケドニアやダキアの集落を略奪するようになりました。このゴート族処理に関して50歳で軍事未経験の皇帝ヴァレンスは虚栄心による誤った判断を繰り返し、その中で皇帝グラディアヌスは戦線で活躍するという状態が続きました。ゴート族と皇帝ヴァレンスの軍は現トルコのハドリアノポリスの戦闘で衝突し、激戦の末にゴート族が勝利し、皇帝ヴァレンスは戦死してしまいます。この戦いを機にゴート族はドナウ河南方のローマ帝国内部に留まるようになり、ローマ帝国のゲルマン民族化は決定的な路線となります。
■皇帝テオドシウスの治世(紀元379~395年)
・皇帝グラティアヌスはローマ帝国東方の統治問題をどうにかしないといけなくなり、スペインにいた31歳のテオドシウスを頼ることとなります。テオドシウスの父は皇帝グランティヌス一世の時代に活躍した武人でしたが、北アフリカの行政長官とそりが合わず密告者としてまつられ、混乱期の皇帝グラディアヌスが命じて殺害されていました。グラディアヌスはテオドシウスをローマ皇帝に任命し、皇帝ヴァレンヌなき後に空白地帯となっているローマ帝国東方の統治を任命しました。
・皇帝テオドシウスはまずは兵力の増強から着手して農民や奴隷・ゲルマン民族など手広く強制徴収をし、かつローマ帝国東方にて兵役に従事する兵を西方、ローマ帝国西方にて兵役に従事する兵を東方と真逆に赴任させる大胆な策をとることとなります。皇帝テオドシウスは蛮族退治をすることとなりますが、どうにもならず蛮族の移住を認めることとなり、大量のゴート族がローマ軍の兵士になるという事態に発展しました。蛮族による侵略と農業従事者の現象による国からの重税により耐えられなくなり、このタイミングで独立農民から農奴になる人が増えたとされます。
・尚、皇帝グラティアヌスはブリタニアで反乱を起こした司令官マクシムスに攻め込まれ、紀元383年に死亡してしまいます。その後の帝国西方は幼齢のヴァレンティニアヌス二世により統治され、紀元392年に死去してからは東西のローマ帝国を皇帝テオドシウスが紀元395年まで統治する形式になりました。
■司教アンブロシウスの躍進・ローマ帝国キリスト教国化の道のり
・聖アンブロシウスは紀元330年生まれでローマの名家の出で元老院議員を務め、首都ローマの首都長官を務めていました。この頃、ミラノではアリウス派とアタナシウス派が激しい衝突をしており、ミラノの司教になることを勧められました。43歳のタイミングで未だキリスト教徒でなかったアンブロシウスは最初は辞退しますが、政治的な利害の観点から推薦を引き受け紀元374年にミラノの司教の座につくこととなります。
・皇帝テオドシウスはコンスタンティヌス・コンスタンティウスがやっていなかった生前に洗礼を受けるということを30歳のタイミングでしたが故に、神の代理人である司教に従順な皇帝になっていました。司教アンブロシウスはアタナシウス派の司教としてテオドシウス・グラティアヌスらの外交を引き受けたり、ご意見番としての役割を全うして政治権力を取り込んでいきました。三位一体説を唱えるアタナシウス派はカトリックと呼ばれるようになり、アリウス派が蔓延る東方の教会勢力を徹底的に排除するべくアンブロシウスは躍動するようになります。コンスタンティノープルの司教は皇帝テオドシウスの命により、アタナシウス派の司教を据えられました。加えて、異端であるキリスト教以外の宗教信者の徹底的な迫害・罰則が皇帝テオドシウスにより遂行され続けました。
・司教アンブロシウスの間接的な働きかけにより、皇帝テオドシウス・グラティアヌスの手により異端・異教の排斥・キリスト教国化が完成しました。偶像崇拝禁止などのキリスト教の思想を以て、かつてのローマ・ギリシア文明の芸術は一気に淘汰されていきます。紀元388年に皇帝テオドシウスは元老院議会と対話をして、キリスト教を国教とし元老院議会を価値がないものにする方針を決定的になりました。異端・異教の象徴としてローマ帝国の図書館は閉鎖に追いやられ、こうした文化文明の再興は中世末期のルネサンスまで凍結することとなります。このタイミングでギリシアに起源をもつオリンピアの競技も廃止となります。
・そして、皇帝に対してキリスト教の優位を明確にする(ローマ法を無意味にする)路線を司教アンブロシウスは皇帝テオドシウスに対してむけることでキリスト教による支配権が完成しました。神の代理人であるという司教と教会が皇帝よりも強いという決定的な路線を構築しました。皇帝テオドシウスは紀元395年・司教アンブロシウスは紀元398年に死去し、皇帝テオドシウスは東西ローマ帝国を息子の18歳であるアルカディウス(東ローマ帝国統治)と10歳のホノリウス(西ローマ帝国)に分割統治させました。
【所感】
・皇帝テオドシウスはローマ帝国の国境をキリスト教にしたことで有名な皇帝ですが、若くして洗礼を受けていたことも相まって、実質的な支配権は既に三位一体説を唱えるカトリック教会であり政治のツールとして宗教を駆使していたミラノ司教アンブロシウスが黒幕であったというのは非常に印象的でした。
・個人的にはキリスト教国化が進む歴史的な転換点の感慨深さは勿論ですが、皇帝テオドシウス単独で帝国を長期間統治できるほどに蛮族(ゲルマン民族・ゴート族・フランク族など)やペルシア王国の脅威が抑制されていたという側面が非常に印象的でした。危機の三世紀以後、統治体制や国防は何等か崩壊し続ける中で、皇帝ディオクレティアヌス・皇帝コンスタンティヌスを経て統治システムの性質が変わっていく中でその最終形態としてキリスト教・教会による現世統治という形態に辿り着いたという歴史の必然性・偶然の連続を考えさせられました。
・国防・食糧・財政・社会福祉・経済・インフラ(医療・教育・水道)など政治には様々な論点がついて回りますが、ローマ法と身分階級制度などを巧みに駆使した分権型の統治システムを長期に形成したローマ帝国の統治システムが半ば専制君主的な硬直的な組織形態に移行する歴史的転換点が本書の時代でした。社会や社会の統治のあり方について本書の記述は考えさせるテーマとなっており、知的好奇心を刺激させられる内容でした。
以上となります!