雑感

読んで面白かった本を要約しています。主に事業・プロダクト開発(PdM/UXデザイン/マーケティング)のビジネス書と社会科学(経済学/経営学)・人文科学(哲学/歴史学)の古典。

■要約≪ローマ人の物語5≫

 

今回は塩野七生氏のローマ人の物語を要約していきます。5は「ハンニバル戦記」の上中下巻の下巻であり、紀元前205~紀元前146年の第二次ポエニ戦争終結、事後のマケドニア王国・カルタゴ滅亡までを描いています。4最終盤でローマ軍の救世主として登場したスキピオが引き続き戦いを率いてついにカルタゴの名将ハンニバルと相まみえます。前半は主に第二次ポエニ戦争の個別戦局に関する記述が中心で後半は事後のローマ帝国マネジメント方針や同盟国マケドニアギリシア文明・カルタゴとの折衝の様が描かれます。

 

ローマ人の物語5」

ローマ人の物語 (5) ― ハンニバル戦記(下) (新潮文庫)

■ジャンル:世界史・歴史小説

■読破難易度:低(非常によみやすい文体で書かれており、一部物語調なのでサクサク読めます。世界史の教科書や地図を手元に置いて読むとわかりやすくなります。)

■対象者:・ヨーロッパの歴史について興味関心のある方

       ・ローマの栄枯盛衰の変遷を詳しく理解したい方

 

ローマ人の物語3(ハンニバル戦記(上))は下記≫

■要約≪ローマ人の物語3≫ - 雑感 (hatenablog.com)

ローマ人の物語4(ハンニバル戦記(中))は下記≫

■要約≪ローマ人の物語4≫ - 雑感 (hatenablog.com)

 

≪参考文献≫

■ローマ人盛衰原因論

■要約≪ローマ人盛衰原因論≫ - 雑感 (hatenablog.com)

 

【要約】

■第二次ポエニ戦争終期(紀元前205~201年)

・この時代のローマは執政官ファビウスが「ローマ本土防衛構想」を掲げている状態であり、スキピオカルタゴ本国を攻めるという構想を推し進めるのは容易ではありませんでした。マケドニア王国がカルタゴとの同盟を破棄しているチャンスをみて、スキピオは独自にシチリア半島経由でカルタゴ本国を進軍するという動きを見せることとなります。カルタゴ第二の都市ウティカ奇襲に成功したスキピオは有利な条件でカルタゴと講和に持ち込める体制を構築し、その最中でローマVSカルタゴの最終決戦「ザマの戦い」が勃発します。ザマの戦いは事前にカルタゴ軍のハンニバルローマ軍のスキピオで、ポエニ戦争の火種となった「サルデーニャ島・スペインの領有権を巡る主張の違い」を確認した上で始まりました。

カルタゴ軍は得意な「像の突撃・スペイン・アフリカ大陸の傭兵による奇襲戦法」を採用しましたが、ローマ軍のスキピオは読み切り、軽装歩兵と重装歩兵の絶妙な隊列バランスを組み、騎兵を用いた側面攻撃をすることで圧勝します。この敗戦の結果を踏まえ、カルタゴ軍は講和を持ち込み、「カルタゴサルデーニャ島イタリア半島・スペインからの完全撤退」という形で終結しました。

 

■第二次ポエニ戦争事後(紀元前200~183年)

ポエニ戦争以後のローマ元老院スキピオ・アフリカヌスが先導していく形式をとり、ギリシア人の依頼を受けてまずはマケドニア王国の侵略を推し進めていくことになります。ローマはプトレマイオス朝エジプト・セレウコス朝シリアなどとの絶妙な関係を意識しながらアテネに対して侵攻を深めるマケドニア王国とどう対峙するかを判断する展開になりました。マケドニア国王フィリップスポエニ戦争においてハンニバルと結託してローマを攻めようとした前科持ちということで介入体制を持たざるを得ないとされました。

・この時代のヘレニズム諸王国はアレクサンドロス大王の以後分割統治されて、アンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝シリア・プトレマイオス朝エジプトの3国が政治的な覇権争いを百年程度緩やかに続けていた状態でした。エジプトやシリアは素直にギリシア人に現地文明が服従するという形式を採用しましたが、アテネやスパルタなど優れた文明をもつマケドニア地域はそうはいかず、ギリシア現地がアカイア同盟・アエトリア同盟を結託するなどの抵抗を見せていました。当時のローマはギリシア文化に傾倒していたこともあり、ギリシア現地勢力の抵抗に力は課すもののマケドニアを滅亡させるまでには至らない、至れないという複雑なバランスでした。結果的にローマはマケドニア王国と戦い圧勝を収めることでギリシア都市の自治は保たれ、緩やかな同盟関係に進展していくのでした。マケドニア王国・ギリシア諸勢力の懐柔に成功したローマ軍は旧カルタゴ軍のハンニバルをかくまうセレウコス朝シリアと小アジアで戦争をすることとなり、ポエニ戦争で鍛え上げられたスキピオ式の兵法をもってこの戦いも圧倒していくこととなります。

 

マケドニア滅亡(紀元前179~167年)

マケドニア王国は統治する国王の思想により、ローマとの距離感は変容し続けるものであり聡明なフィリップス5世はローマと友好関係を構築しましたがフィリップス5世の後に即位した王ペルセウスは反ローマ的な思想の持主でした。ギリシア文明というのは誇り高く、自分達が特異であることや優れた文化文明を構築し、ヨーロッパ世界の起源を形成したという自負をお持ちであり、ローマに対しての現状を憂いての抵抗でした。

・ローマはスキピオ系列であるエミリウスという執政官がハンニバルに鍛えられたスキピオ式兵法を用いて巧みな戦いを展開し、マケドニア王国を圧倒します。結果的にマケドニア王国自体は滅亡の道を歩み、ギリシア都市は自由自治を尊重するスタイルでローマはマネジメントし、公道を作る・強い租税を強いるなどの方式は採用せず絶妙な距離感で対峙することをローマは意思決定しました。

 

カルタゴ滅亡(紀元前149~146年)

ポエニ戦争以後のカルタゴは独立国家として存続していましたが、武装は抑えられ戦いは常にローマの許諾をとるという形であったのでじり貧な状態にありました。カルタゴはかつての通商国家としての国際的な競争優位がなく、ただの農園経営に従事する弱小国といった具合でした。カルタゴは同じ同盟関係にあり、カルタゴの隣国にあたるヌミディア王国の台頭・脅威に悩まされていました。カルタゴヌミディア王国の脅威から約6万の傭兵を調達し、ヌミディア王国に対して専守防衛の観点から攻撃を仕掛けました。これが災いとなり、カルタゴは滅亡の道を進むこととなります。カルタゴヌミディア王国との戦いで敗戦すると共に、ローマに対して反省の色を徹底しなかったことで「ローマ同盟を反故にした国」という認識を元老院が強めるに至ってしまいました。この時代のローマはギリシア都市がマケドニア王国崩壊以後、体たらくであり反ローマ的な動きをみせることもあり、「寛容路線の帝国主義」から「強硬派帝国主義」へ思想を変容させるフェーズでもありました。こうしたこともあり、カルタゴは滅亡・ローマ属領化の道を進むことになってしまいました。

・この時代にスペインカルタゴはローマの属州になり、ローマ直轄統治をするに至りました。加えて、おこぼれのような形で後継者不足に困った小アジアの一帯がローマ直轄領に組み込まれることとなり、ローマは一気に地中海世界をも治めるに至りました。ギリシアと合わせてこれが東ローマ帝国の基礎を構築します。

 

【所感】

・4の華々しい戦争を取り扱うのに比べて戦争前後の各国・関係者の駆け引きにフォーカスした展開となっており、世界地図を見返しながら読み進めることで非常に面白く読むことができました。わずか60年の間に一気にローマ帝国が広大になった様は圧巻であり、ヨーロッパ世界においてローマとギリシアが誇り高き文明として評価される理由を再確認できたように思えました。

・現代とは全く異なる各国の力関係・発展度合いを鑑みると、国の発展を後世する変数が時代と共に変容し都度そのシステムに最適化している国が一時的な覇権を占めるということを繰り返してきているのが歴史であるということを再認識させられます。近代世界システムシリーズ(資本主義に立脚した国際分業体制のからくり)にも似たような記述がありましたが、それを改めて理解した次第でした。

 

以上となります!